「火事です!」
           中井和子


 私は、茶の間で夫と朝食を摂っていた。
「火事です! 火事です!」
 突然、緊迫した女性の大きな声がして、私は廊下の向こうの台所を振り返った。紫煙が充満しているのが見えた。
「いけない! 忘れていた!」
 私は慌ててガス台へ走り、火を止めた。
 夫へは味噌汁を給仕しながら、私は昨夜の実だくさんの野菜スープの残りを始末しようと温めていた。点火したことを、三歩歩いて忘れたのだ。換気扇が回っていたので、煙や焦げた臭いに気かつかなかった。それで、換気扇が飲み込めなくなった煙が台所中に充満し、鍋の中を炭にしていた。
 ガスを点火しているときは、その場を離れないことと、いつも自分を戒めているのに、ちょっとの時間も惜しくなって、その場を離れてしまう、という、気ぜわしい性格なのだ。
 夫は「窓を開けよう」と言って、台所の窓を開けてくれた。私の失態を責めることなく、静かに協力してくれる夫に、私は心のうちで感謝した。
 間もなく八十路になるという私は、最近もの忘れがひどくなり、脳に異常をきたしているのではないかと、この春、頭のMRIの検査を受けてきたほどである。たんなる物忘れ、と診断されたものの、その物忘れに私はおびえている。そのように自信喪失している私であるから、もし、夫の叱責を受けたら悲しくなって、気落ちしたに違いない。
 台所の煙は間もなく廊下に流れ出て火災報知器の女性を目覚めさせた。彼女も緊迫した声で叫んだ。

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二枚目

「火事です! 火事です!」
 私は、もう大丈夫なのにと、気恥ずかしいやら腹立たしいやらで、報知器が半ば恨めしいのであった。梯子(はしご)を持ってきて報知器のボタンを押して声を止めようかしら、と報知器を仰ぎ見るのであったが、しかし、そう考えただけで、なにも手につかない。ただ右往左往している自分がいた。
 煙は魔物のように二階への階段を上っていった。そして、二階の報知器の女性をも叫ばせた。
「火事です! 火事です!」
 甲高い女性の声は、ご近所の皆さんに怖い思いをさせているのではないかと、私は二階のベランダから恐る恐る外を見渡した。人影はなく、ほっと胸を撫で下ろした。
 そして、紫煙が薄くなってくると、二階の女性が、
「別の部屋が火事です!」
 と、言い方を変えた。それから間もなく三ヵ所の報知器のスイッチが、ぷつん、と音を立てて切れた。
 今様の建築のダイニングキッチンなら、このような失敗はないと思われるがどうであろうか。何といっても我が家は、大江戸博物館内にセットされている「昭和の家」である。
 ある日、私といっしょに館内を見学していた私の姪が、
「おばさんは、今もこの建物と同じ家に住んでいるのではなかった?」
 と、私をからかった。
「そうよ。どうぞ、我が家にも見学にいらっしゃってください」
 私もやり返し、二人で笑ったのだった。

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三枚目 

 火災報知器騒ぎが収まると、私の口から衝(つ)いて出た。
「火事です、火事です。私の頭の中が火事です。もう、半焼しました。全焼するのも時間の問題でしょう」
 私は歌うように自嘲したのだった。
 そうしたある日、私は友人と世間話をしていた。私が火災報知器を作動してしまった失敗を話した。きっと大笑いされるだろうと覚悟をしていたのだが、案に相違して、友人は真面目な顔をして言った。
「私は何度も鍋をだめにしているわよ。ある日、おうどんを茹でていてそのまま外出してしまったことがあるの。帰ってきたら、鍋の中でお箸が墨になっていたわよ」
 私は、そのようすを想像しただけで怖くなり、心の中で顔を覆った。そして、大事に至らなくてよかったと、今更に目の前の友人の姿に安どした。
 友人はことばを続けた。
「それにね、私は外出の途中で、火を消したかどうかを忘れてしまったことがあるのよ。家に戻るには遠すぎるし、近所の人にお願いしようと電話をしたの。でも鍵は私が持っているでしょう、仕方なく、あそこの窓が開くからと、秘密の出入り口を教えて家の中に入ってもらったことがあるのよ」
 私はまた、ええっ? と驚き、私より二、三歳年長の多忙に過ぎる友人の生活に同情したのであった。お互い年を重ねていく怖さに、ため息が出たのであった。
 火事は恐ろしい。すべてを失うことになるし、ご近所にも迷惑をかけるようになる。 
 私は、二度とこのような失態を起こさないようにと、よくよく肝に銘じたのであった。